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LIFE! 父性と母性 それからポートランド [映画]

「LIFE!」
監督・主演 ベン・スティラー
脚本 スティーブ・コンラッド

雑誌のネガ管理部で働く夢をあきらめた中年男が冒険を経て成長していく、というありきたりなプロット。しかし、実際にあったメディアの買収・合理化を背景に置くことで彼の冒険に深みを与えている。つまり、それによって彼の冒険は、彼個人、または一企業といったドメスティックなもののためだけでなくでなく、より普遍的なものを守るための戦いへと昇華させらている。
メディアをことさらに特別なものに仕立てるつもりはない。しかし、経済活動の合理化が生産部門から管理部門へ、そして言葉、無形なものに及んできたときに、やがては経済活動の枠を超えて人間性の領域にまで及ぶのではないかというばくぜんとした危機を感じる。SNSの時代がもたらした「言葉の規格化」の薄気味悪さと、おそらく、同種のものなのだろう。
雑誌のタイトルが「LIFE」であるのも、浸食されようとしているメディアの領域の先にあるのが人間性であることの暗喩だと思う。

リストラを進める変なヒゲの金融屋と、大袈裟なジェスチャーでスピーチするコンサル(セミナーで習ったのだろう。途中で止めると最初からしかやり直せないのがウケる)の薄っぺらさは世界共通で笑える。

日本で同じテーマを扱えば、「長年、真面目にコツコツ勤めたのに」という滅私奉公を裏切られた恨みがにじみ出て、内向きの重く湿った感情的な話になり、主人公の無能さがより際立ってしまう。
一方、本作では「LIFEのスローガン」という理想が忠誠心の拠り所となっており、視線が外に開いており乾いていて論理的だ。

つまり、これは父性の物語で、それが成長の源なのだ。
父性とは言葉、論理、個を分化する力である。ニーチェが死んだと言った神も父であった。
「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」も「父」を捜す物語だった。
父性を中心としたキリスト教的価値観が過度に合理的な非人間的社会を招いたとも言える。それが象徴的に表われたのが、9.11であったかもしれない。あるいは、そうした極端な事件を取り上げなくても現代社会はそうした非人間的な合理に溢れている。
しかし、そこから人間を救い出すのも、また父性なのである。
これは、父を見失った者が、また父を捜す物語なのだ。その意味ではとてもアメリカ的であるともいえる。

日本であれば、無能をも無条件で包み込む母性的な愛に埋没してしまう。そこに成長はなく、最後は「気合いでがんばろう」で解決しようとする。論理でなく感情である。
この島々を覆う湿り気はモンスーン気候のためでなく、そうした言語化以前の不条理なものが溢れ出したためであるかもしれない。

物語の中で、具象化した父として登場し主人公を導く存在となるのが、ショーン・ペン扮する写真家である。
しかし、彼はすべてを知っているのだろうか?主人公の存在はデザインされたものであるのか?父とは世界のすべてをつくり、支配する全知全能の存在であるのか?それとも、そうではないのか。
ベン・スティラーは「人生は喜劇だ」と言いたいに違いない。その世界観はすがすがしいほど軽やかだ。

日本版の予告編がつまらなそうに見えるのは、母性的な「共感」に訴えているからに違いない。背景に「ボヘミアン・ラプソディ」が流れるが、これも「母に対する歌」だ。本編にこの曲は流れない。明らかなミスリードだ。

夕方は、「ポートランド対マイルドヤンキー談義」になった。これも父性と母性の話。未分化な個を無条件に包み込む言語化以前の共同体は個の成長を促すことはない。言葉、論理、個を分化する力、しかし、それは共同体を引き裂くものではないのだ。とかなんとか。

http://www.foxmovies.jp/life/
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