SSブログ

ゴーン・ガール [映画]

アメリカの田舎町で暮らす夫婦。結婚5周年の記念日に妻が失踪する。
徐々に夫が事件に関与したとみられる状況証拠が見つかっていき、テレビのワイドショーを巻き込んだ大騒動になるが。

サスペンスドラマのように見せかけて、この物語のテーマは別のところにある。それが分かったところで、冒頭からのすべてのモノローグが鮮やかな意味を持って甦ってくる。モノローグはドラマの背景を埋めるための小道具ではなく、むしろドラマが背景でモノローグこそが物語のテーマを紡いでいる。

夫ニックがテレビの中で弁護士に振り付けられた通りに語る姿を、妻エイミーが身を乗り出して見るシーンがこの物語のもっとも重要な場面だろう。だから、これはどこまでもコメディなのだ。

この物語の背景には、ニューヨークとミズーリの対比として描かれる二つのアメリカがある。
妻はニューヨークの生まれ。作家の母を持つインテリ家庭で育った才媛だ。しかし、夫の故郷ミズーリは保守的で、夫が高校生の頃とたいして変わらない人間関係の中で専業主婦として暮らしていた。
保守的な町では専業主婦であることがステータスだ。それで暮らしが成り立たなければ、パートタイムの仕事に出る。ハーバードの学位があっても、意味は無い。
主婦たちは、テレビのワイドショーをあてがわれて、そのくらいしか楽しみなく暮らしている。そのワイドショーが男である夫ニックに復讐することになる。

女の敵は女だ。
夫の妹、刑事、妻の母、愛人、トレーラーハウスの女、ワイドショーのキャスター、野次馬。
女は皆強く、男たちは弱い。
事件の展開にうろたえ、引退したフットボール選手のような弛緩した顔つきと体つきでうろうろする夫のニックの様子が象徴的にそれを表している。

物語が進につれて、さまざまな顔を見せていく妻エイミーをロザムンド・パイクが好演。

Gone Girl (2014)
デビッド・フィンチャー 監督
ベン・アフレック
ロザムンド・パイク


映画「桐島、部活やめるってよ」の読み方 [映画]

この映画のもっとも重要なメッセージは
「おれたちはゾンビ映画が大好きだ」
ということだ。
これは、主人公に仮託した映画製作に関わった者たちの心の声だ。

しかし、映画には金がかかる。
そこで、「最近、話題の小説がありまして、それを原作に映画が作りたいです」ということにして金を集めた。

スクールカーストの最上位にいる野球部は、何がどう間違ってもプロ野球選手にはなれない。だからといって、転落の人生が始まるわけではない。野球部は、スポーツマンでイケメンだ。明るい性格で、それなりに努力をすれば、たいていのことはできてしまう。普通に大学に行き、普通に就職しても、「普通の人」のカテゴリーの中ではそれなりに勝ち組でいられる。

一方、最下層の映画部はどこまでも最下層のままだ。わずかな稼ぎをつぎこんで、売れるあてなどない自主映画を作り続けるだろう。
万が一、プロになったとしても野球部を逆転できるわけではない。メジャーで公開される映画を撮っても食えない監督は大勢いる。経済的なことだけではなくて、そもそも映画という悪魔に魂を引かれている限り地獄の底を這うように生き続けるしか仕方ないのだ。

そんな映画部でも、
「おれたちはゾンビ映画が大好きだ」
と叫ぶ時だけ、その声に少しだけ嬉しそうな色が帯びる。
それは、永遠に続く漆黒の闇の中にほんの一瞬キラリと輝く光なのだ。
だからこそ、その叫びは映画にする価値がある。映画にしなければならない。映画部たちはそう思う。

ドラフトされる可能性を信じて部活をやめない野球部の愚かな先輩は、スクールカーストの外にいる。上でも下でもなく、その外にいる。
野球部であることにステータスを求めない。しかし、野球をすることが将来、何の役にも立たないということへの疑問も感じない。ただ野球が好きで、野球をしている。
カーストからの解脱。彼は、寒山拾得なのだ。

しかし、同じようにただ映画が好きで映画を作っている映画部は、涅槃からはほど遠い。映画という地獄に囚われ、生きたまま焼かれている。
だから、
「おれたちはゾンビ映画が大好きだ」
と叫ぶのだ。叫ばなければならない。

「なぜゾンビ映画なのか?」
という疑問を持った人は幸せだ。少なくとも、そうなる資格がある。
これは、理由を問う問題ではなく、ただ「分かる」か「分からない」かの問題だからだ。
分かってしまった人の魂は地獄にある。映画という地獄だ。そこで未来永劫焼かれ続けるのだ。
タグ:桐島
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

私の男 [映画]

生きるとはなんだろう?
大人はよく喋る。泣いてみせる。よい人間であろうとする。それをひとに見せつけたい。社会に属することを確かめたい。それが生きるということなのだ。
まだ少女だった女は、抱えていた水のペットボトルの口を男が開けてみせても、飲もうとはしなかった。
水を飲むように促されて、水を飲むが社会に属する者だ。水を飲みたいかに関係無く、社会に属するために水を飲む。
女はそれをしなかった。女にとって、それが生きるということだった。

男は女の前で、女の母を「すきだった」と言った。なぜ、すきだったと言えたのか?
男にとって、女の母は最後まで男の母だったのだろう。男は母に対するしかたで女の母を愛した。
だから、男は女の父になろうと思ったのだろう。女の母が男にしたように、父として女を愛そうとしたのだろう。

女にとって男が世界のすべてだったのだ。男も女にとって、そうであろうとした。
社会に属する者は、女が男を愛したようには他の誰かを愛することができない。それが世界のすべてではないからだ。だから女は社会に属する者よりも、自分の方が純粋だと信じられたのだ。

男は人を殺したことで、強い社会の引力によって女から引き剥がされてしまう。
男が「おまえには無理だよ」と口走るようになるのは、自分にも無理なのだと知ったからだ。
女はそれから、男の考えることが分からなくなった。女は死体を見て泣いたのではなく、死体の前で泣き崩れる男を見て泣いたのだ。そのとき、死体を片付けたのは女だったに違いない。

「自分は悪くない」と、女は何度も自分に問うて、確かめる。
だから、女は善悪を知っている。この物語は善悪を問うている。
社会に属する者は善悪を知っているだろうか?社会に属そうとすることは、善悪ではなく損得ではないだろうか?社会に属する者は、それを善悪と言い換えてないだろうか?その嘘を多数決でごまかしてはいないだろうか?
善悪は多数決で決めることはできない。社会に属する者はそこでもまたひとつ嘘をつくのだ。

女は悪くないのだ。社会に属する者たちが誤っているのだ。
その可能性を試すことができないのなら、わたしは損得で社会に属するだけの者だ。
善悪を知る者の良心とは何か。

熊切和嘉「私の男」(浅野忠信・二階堂ふみ)
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

清洲会議 [映画]

本能寺の変後、天下の趨勢を決めた清洲会議。三谷幸喜得意の密室群像劇として描いている。

役所広司の柴田勝家は無骨で実直だが、気を利かせようとすると全部ピントがずれた行動になる。小日向文世の丹羽長秀はインテリ風の真面目な知恵者だが、現実はどうも思うように運ばない。佐藤浩市の池田恒興は自分の立場をはっきりさせないエリート。他人に媚びる素振りは見せないが、大多数に付き利に転ぶことがばれている。
いずれも頼りにならない人物だが、悪い人間ではない。

唯一、裏表のある羽柴秀吉が悪人的で、こういう人物に人気が集まるのは大衆の弱さ、愚かさを表わしているようでもある。
しかし、大泉洋が演じることで物語が陰湿にならずに済んでいる。

女性陣は一癖も二癖もあり、良妻賢母であったり女神的であったり男性が理想化した女性は登場しない。
また、砂浜での旗取り合戦のばかばかしさは底が抜けている。

家来が集まり過ぎて部屋が足りず、前田利家、佐々成正ら重臣が狭い部屋でザコ寝する場面がある。
この物語の登場人物たちの間に働く引力を象徴的に表わした場面だと思う。
織田家が全国規模に拡張し、登場人物たちも出世して社会的ステータスを備えた立場になったわけだが、かつては清洲城という狭い場所に身を寄せ合い暮らしていた。
その肌が触れあうような濃密な人間関係の記憶が、会議という平和な手段に彼らを引き寄せ、それを破綻させないための柔らかな求心力になっている。
「お家のため」や「国家のため」といった身体感覚から切り離された揮発性の高い封建的価値観では、それはできないのである。

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

LIFE! 父性と母性 それからポートランド [映画]

「LIFE!」
監督・主演 ベン・スティラー
脚本 スティーブ・コンラッド

雑誌のネガ管理部で働く夢をあきらめた中年男が冒険を経て成長していく、というありきたりなプロット。しかし、実際にあったメディアの買収・合理化を背景に置くことで彼の冒険に深みを与えている。つまり、それによって彼の冒険は、彼個人、または一企業といったドメスティックなもののためだけでなくでなく、より普遍的なものを守るための戦いへと昇華させらている。
メディアをことさらに特別なものに仕立てるつもりはない。しかし、経済活動の合理化が生産部門から管理部門へ、そして言葉、無形なものに及んできたときに、やがては経済活動の枠を超えて人間性の領域にまで及ぶのではないかというばくぜんとした危機を感じる。SNSの時代がもたらした「言葉の規格化」の薄気味悪さと、おそらく、同種のものなのだろう。
雑誌のタイトルが「LIFE」であるのも、浸食されようとしているメディアの領域の先にあるのが人間性であることの暗喩だと思う。

リストラを進める変なヒゲの金融屋と、大袈裟なジェスチャーでスピーチするコンサル(セミナーで習ったのだろう。途中で止めると最初からしかやり直せないのがウケる)の薄っぺらさは世界共通で笑える。

日本で同じテーマを扱えば、「長年、真面目にコツコツ勤めたのに」という滅私奉公を裏切られた恨みがにじみ出て、内向きの重く湿った感情的な話になり、主人公の無能さがより際立ってしまう。
一方、本作では「LIFEのスローガン」という理想が忠誠心の拠り所となっており、視線が外に開いており乾いていて論理的だ。

つまり、これは父性の物語で、それが成長の源なのだ。
父性とは言葉、論理、個を分化する力である。ニーチェが死んだと言った神も父であった。
「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」も「父」を捜す物語だった。
父性を中心としたキリスト教的価値観が過度に合理的な非人間的社会を招いたとも言える。それが象徴的に表われたのが、9.11であったかもしれない。あるいは、そうした極端な事件を取り上げなくても現代社会はそうした非人間的な合理に溢れている。
しかし、そこから人間を救い出すのも、また父性なのである。
これは、父を見失った者が、また父を捜す物語なのだ。その意味ではとてもアメリカ的であるともいえる。

日本であれば、無能をも無条件で包み込む母性的な愛に埋没してしまう。そこに成長はなく、最後は「気合いでがんばろう」で解決しようとする。論理でなく感情である。
この島々を覆う湿り気はモンスーン気候のためでなく、そうした言語化以前の不条理なものが溢れ出したためであるかもしれない。

物語の中で、具象化した父として登場し主人公を導く存在となるのが、ショーン・ペン扮する写真家である。
しかし、彼はすべてを知っているのだろうか?主人公の存在はデザインされたものであるのか?父とは世界のすべてをつくり、支配する全知全能の存在であるのか?それとも、そうではないのか。
ベン・スティラーは「人生は喜劇だ」と言いたいに違いない。その世界観はすがすがしいほど軽やかだ。

日本版の予告編がつまらなそうに見えるのは、母性的な「共感」に訴えているからに違いない。背景に「ボヘミアン・ラプソディ」が流れるが、これも「母に対する歌」だ。本編にこの曲は流れない。明らかなミスリードだ。

夕方は、「ポートランド対マイルドヤンキー談義」になった。これも父性と母性の話。未分化な個を無条件に包み込む言語化以前の共同体は個の成長を促すことはない。言葉、論理、個を分化する力、しかし、それは共同体を引き裂くものではないのだ。とかなんとか。

http://www.foxmovies.jp/life/
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。